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こんぴら歌舞伎のあゆみ
こんぴら歌舞伎のまちづくり
- 1.テレビ番組
- “こんぴらさん”で有名な、四国は香川県琴平町にある、国指定重要文化財「旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)」は、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の復活により、全国から熱い注目を浴び、四国路の春を告げる風物詩として昭和60年から毎年行われている。
昭和59年6月中旬、梅雨雲が金刀比羅宮の鎮座する象頭山にかかる季節に、1本の電話が鳴った。電話は東京からで「テレビ番組を旧金毘羅大芝居で撮影したいので、打ち合わせに来町したい」とのこと。旧金毘羅大芝居は魅力ある芝居小屋でありながら、今まで観光の町「琴平」の観光資源として、華やかな舞台に立つこともなく埋もれていたので、この依頼はテレビというメディアを通じて少しでも多くの人に、旧金毘羅大芝居をピーアールする絶好の機会でもあった。数日後、打ち合わせにきた担当者は、歌舞伎俳優、中村吉右衛門丈・澤村藤十郎丈・中村勘九郎丈出演番組「すばらしき仲間」を製作するとのことで、全国の人々に旧金毘羅大芝居を見ていただける期待に胸を弾ませた。
蝉時雨が降る、昭和59年7月5日、6日の2日間、旧金毘羅大芝居で撮影が行われ、歌舞伎俳優中村吉右衛門丈、澤村藤十郎丈、中村勘九郎丈の今をときめく江戸歌舞伎の人気役者に多くのスタッフが加わり、熱気と暑さの中でライトの光を浴びながら、汗をかきかき撮影したのが、ごく最近のことのように懐かしく思われる。
- 2.こんぴら歌舞伎の復活
- テレビ撮影に訪れた3人の役者は、初めて接する旧金毘羅大芝居にすっかり魅了されたらしい。「これこそ歌舞伎の原点」「是非この舞台を踏みたい」「何よりも客と一体感を感じる、舞台と客席の距離がすばらしい」と話し合ったのが、文化財としての旧金毘羅大芝居が芝居小屋として35年ぶりに「こんぴら歌舞伎」を復活させる再スタートとなった。一方私達の方では、「文化財での歌舞伎公演を許可してくれるだろうか」「お客様には本当に来てもらえるだろうか」「公演のノウハウのない者に出来るだろうか」という不安ばかりであった。実現までの道のりは険しく厳しいものであったが、「こんぴら歌舞伎」が復活できるならと、松竹株式会社にも全面的な協力をお願いし、官民一体となって旧金毘羅大芝居での歌舞伎公演に全力を注いだ。そして翌年の昭和60年6月に記念すべき「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」が復活した。この年の公演は6月27日から3日間で昼夜5回行われた。
この「こんぴら歌舞伎」の企画には、各分野のメディアの貢献があったことも特筆したい。例えば某テレビ局は、約1千万円の制作費をかけ、ヘリコプター、クレーン車、特殊機械を駆使し、半年前から撮影を開始し、昭和60年の7月「再現!こんぴら大芝居」のタイトルで全国にテレビ放映を行った。このようにテレビ・新聞・雑誌などを通じて情報発信された「こんぴら歌舞伎」は、全国に大きな反響を呼ぶことになるのだ。
「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」は、旧金毘羅大芝居の良さを生かすために中村吉右衛門が自ら「松貫四」のペンネームで脚色した「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」を上演し、芝居小屋の機能を生かした芝居が好評を博し、全国から熱烈なファンで町は賑わいを見せた。このように役者と地元との熱意が結集し、3日間すべて満員盛況という大成功を納めることが出来た。公演の前日には、役者を乗せた人力車が町を練り歩く催物(お練(ね)り)を行い、町は約千本を数える“のぼり”と、お練りの見物の人々であふれた。人力車の回りには黒山の人だかりで、掛け声が飛び交い、役者はファンとの握手、握手で押しつぶされそうなほどであった。
- 3.ボランティアの活躍
- 旧金毘羅大芝居の公演は、多くのボランティアの人たちによって支えられている。江戸時代そのままの芝居小屋なので、電気も機械も使わずに上演するため、舞台転換時に使う回り舞台・せり・すっぽんは全て人力により操作する。また照明は自然光のみで3段階になっている明かり窓の開閉によって行う。これらは全て琴平町商工会青年部員が毎日、ボランティアで行っているのである。
お客様のお席への案内・プログラムの販売・掃除などを担当してくれるのが“お茶子さん”である。1日20名から30名の女性がかすりの着物姿でボランティアで参加してくれている。“お茶子さん”の参加も全国的になり、県外からも泊りがけで参加してくれている。このように地元のみならず全国からのボランティアの人達で“まちづくり”の輪が広がっている。